1時間後――朱莉がキャリーバッグを肩から下げて億ションから出て来ると既に琢磨が外で立って待っていた。琢磨は朱莉に気付くと、頭を下げてきた。「新年あけましておめでとうございます。お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」朱莉は深々と琢磨に頭を下げた。「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。ですが……」琢磨は頭を上げる。「はい?」「それ程待ってはおりませんので気になさらないで下さい」琢磨は笑顔で答えた。そして、すぐに朱莉が肩から下げている大きなバックに気が付いた。「朱莉さん。随分大きな荷物をお持ちの様ですね」「はい。実はペットを連れてきてしまいました。あの、実はご連絡を頂いた時に既にシャンプーを終わらせていて。それで一人ぼっちで残していくのはかわいそうで……事前にお伝えせずに勝手に連れて来てしまい、申し訳ございませんでした」そして深々と頭を下げる。「そんな。どうか気になさらないで下さい。ところでこのキャリーバックの中、見せていただいてもよろしいでしょうか? 実は私も犬が好きでして……」「ええ。どうぞ」生垣にキャリーバックを置き、ジッパーを開けると、中には気持ちよさそうに眠っているマロンがいた。「え!? 寝てる。さっきは起きていたのに……」「アハハハ……。とても可愛い犬ですね。これはトイ・プードルですね?」琢磨は中を覗き込みながら尋ねた。「はい、初心者でも飼いやすいと書いてあったので。毛もあまり抜け落ちないし、匂いも少ないそうなんです」「ああ、確かにとても良い匂いがしますね。これも朱莉さんが一生懸命お世話をしている証拠ですね? でも、これならきっと……」「え? きっと……何ですか?」「いえ、何でもありません。ところで朱莉さん。いくら仔犬と言っても女性が持つには重いですよ。私が運びますから。」そう言うと、琢磨はキャリーバックを肩から下げてしまった。「あ、でもそれではご迷惑では……」「いえ、そんなことはありません。では行きましょうか?」琢磨に促され、朱莉は頷いた。歩く道すがら、琢磨が朱莉に尋ねてきた。「ところで犬の名前は何と言うんですか?」「はい、マロンていいます」「マロンですか……。あ、もしかしたら栗から取りましたね?」琢磨は笑みを浮かべた。「はい、栗毛色の可愛らしい子犬だったので」
「初詣って、この辺りで出来る場所があるのですか?」てっきり電車にでも乗るのかと思っていたのだが、一向に駅に向かう様子が無いので朱莉は尋ねてみた。「あ、すみません。まだ行き先を告げておりませんでしたよね。実は日比谷線の六本木駅のすぐ近くに出雲大社の東京分詞があるんですよ。今からそこへ行ってみようかと思っていたんです」「え? 出雲大社って……まさかあの出雲大社ですか?」朱莉は目を丸くした。「ええ、あの出雲大社ですよ」何処か楽しそうに琢磨は答える。「知りませんでした。六本木って大都会ってイメージしか無かったので……」朱莉は白い息を吐きながら言った。「……朱莉さんは殆ど自宅から外出されないんですか?」「はい。今住んでる億ションはご近所付き合いが出来そうな雰囲気でもありませんし。それに……」そこまで言うと朱莉は黙ってしまった。「あの……ご友人と会ったりとかは?」「高校を中退してからはバイトの掛け持ちや仕事で精一杯で親しい友人は特にいないんです。今の生活になるまで働いていた職場では同年代の女性もいませんでしたし」琢磨は歩きながら黙って朱莉の話を聞いていた。朱莉の今迄過ごしてきた境遇があまりにも不遇で何と声をかけてあげれば分からなかったのである。その様子を朱莉はどう捉えたのか、突然慌てた。「あ、すみません。折角お正月早々に初詣にわざわざ誘っていただいたのに。こんな気の滅入るような話をお聞かせしてしまって申し訳ございません」「いえ。とんでもありません。随分ご苦労されたきたのだと思って……。あ、朱莉さん、着きましたよ。ここが出雲大社の東京分詞です」「え? あの……ここですか? これは……随分可愛らしいですね……」てっきり有名どころの神社のように大きいのだろうと勝手にイメージを持っていたので朱莉は目の前に現れたこじんまりとした神社を見て驚いた。「すみません、朱莉さん。もしかして……驚いていますか?」琢磨が申し訳なさそうに頭をかいている。「いえ、とんでもないです。逆にすごく新鮮さを感じて感動してます。こんな都会の真ん中でも初詣が出来るなんて素敵ですよ」笑顔の朱莉を前に、琢磨は心の中で安堵した。(良かった……。取りあえず満足してもらえたようだ) その後、2人は中へ入り、お参りを済ませるとそれぞれお守りを買った。****「朱莉さんは何のお
琢磨が連れて来てくれたカフェは可愛らしい犬のイラストが描かれていたカフェだった。「このカフェは人間用のメニューだけでなく、犬用のメニューも豊富にあるんですよ」琢磨が真顔で『人間用』と言うので、思わず朱莉は吹き出しそうになってしまった。「どうしましたか?」「い、いえ……。九条さんて真面目なイメージしか無かったので……何だか意外な気がしただけです」「そうですか? そんなに真面目に見えますか? でもそう思っていただけるなら光栄ですね」 その後、朱莉はシフォンケーキとコーヒーのセット、琢磨はエスプレッソとチーズケーキのセットを注文した。「マロンにはこちらのケーキは如何ですか?」琢磨はメニュー表を見せた。それは手のひらサイズの可愛らしい3段重ねのデコレーションケーキである。「ほら、このケーキの説明を読んでみてください。何と魚や野菜のペーストで作られたケーキなんですよ」「うわあ……すごいですね。見た目はまるでケーキ見たいです。身体にも良さそうですし……ではこれにします」2人は窓の外を見ると、そこはゲージに覆われた小さなドックランになっており、マロンが走りまわっている。やがてそれぞれ注文したメニューが運ばれ、朱莉と翔はマロンの様子を見ながらカフェタイムを楽しんだ。その後、2人は朱莉の住む億ションへ向かった――**** 億ションに到着すると、朱莉は玄関で立っている琢磨に声をかけた。「本当に部屋に上がらなくていいんですか?」「ええ。おせちを分けていただくだけですからここで待ちます。琢磨は玄関から中へ入ろうとしない。余程朱莉に気を遣ってくれているのだろう。(お待たせする訳にはいかないから急いで準備しなくちゃ)朱莉はタッパを取り出すと、次々とおせち料理を詰めていく。そして5分後――「すみません、お待たせしました」おせちの入ったタッパを紙袋に入れた朱莉が玄関先にいる琢磨の所へやって来ると紙袋を手渡した。「あの、お口に合うかどうか分かりませんが……どうぞ」「ありがとうございます」紙袋を受け取り、中を覗く琢磨。「ああ。これはとても美味しそうですね。持ち帰って食べるのが今から楽しみですよ」「いえ、ほんとに対した料理では無いので期待しないで下さいね」「そんなことありませんよ。ありがとうございます。ところで朱莉さん……」「は、はい……?
正月休みも開け、もうすぐ1月も終わろうとしている頃――「朱莉、もうすぐ2月になるわね」お見舞いに来ている朱莉に母が声をかけてきた。「うん、そうだね。季節の流れって早いよね」朱莉は編み物の手を休める。「ねえ、朱莉。それって手編みマフラーでしょう?」「うん。そうなんだけど編み物って高校生の時以来だから中々進まなくて。やっぱり模様編みって難しいね」朱莉は恥ずかしそうに答えた。「その色だと、どう見ても男性用ね? ひょっとして翔さんに?」「う、うん」小さく頷く朱莉は……どことなく洋子には寂しそうに見えた。「大丈夫、きっと喜んで受け取ってくれると思うわ。お母さんもね、お父さんと付き合っていた時にマフラーを編んでプレゼントしたことがあるけどすごく喜んでくれたから」「でも手編みのマフラーって男の人から見たら重く感じるかなあ?」朱莉の物の言い方に洋子は違和感をいだく。(朱莉……。貴女と翔さんは夫婦なのよね? それなのにどうして重く感じるなんて言い方をするの? まだ一度も会わせてくれないし……)洋子洋子はずっと以前から翔に会いたいと思っていた。しかし朱莉にその事を告げると悲し気な顔をされたことがあり、それ以来尋ねるのをやめていたのだ。思わず、じっと我が娘を見つめる洋子の視線に朱莉は気付くと、慌てたように言った。「あ、ほら。例えば下手な編み目で身に着けるのが恥ずかしいようなマフラーを手渡されても、本当は使いたくないのに義務感から周りの目が恥ずかしくてもつけないといけないって思わせたら悪いかなって……。そう、それだけの事だから」朱莉の必死な弁明を洋子は複雑な思いで見つめるのだった—―****「ただいま……」ドアを開けると、部屋の奥からキャンキャンと嬉しそうに鳴きながらマロンが朱莉目掛けて飛びついて来た。「ウフフ……ただいま、マロン」マロンを抱き上げると、まるで尻尾がちぎれんばかりに降って喜びを現すマロンが朱莉は愛しくてたまらない。以前は寂しい思いで玄関のドアを開けて帰宅していたが、今では扉を開けるのが楽しみになっていた。マロンを抱き上げ、部屋の時計を見ると時刻は夕方の6時になろうとしていた。「いけない。病院で編み物に夢中になっていたから気付かなかったけどもうこんな時間だったんだね。ごめんね。すぐにご飯あげるから」マロンを床に降ろすと、マロ
ここは明日香と翔の部屋――「ねえ、最近どうしたの? 翔。何だかとても楽しそうに見えるけど?」お風呂から上がって来た明日香がテレビを見ながらおつまみとウィスキーを飲んでいる翔に声をかけてきた。「え? 何故そう思うんだ?」「だって、さっきスマホを見て笑顔になっていたからよ。ねえ……何を見ていたのよ? 私にも見せて?」明日香がテーブルの上に置いてあるスマホを素早く奪い去ってしまった。「お、おいっ! 明日香! 返してくれないか?」翔の慌てた様子に、明日香はピンときた。「何……? その態度何だか怪しいわね…。もしかして朱莉さんからなの? それとも別の女かしら!?」途端に明日香の顔が嫉妬に歪む。「違う! そんなんじゃないって!」翔は明日香からスマホを取り上げようとするとも、明日香はヒョイと避けて逃げてしまう。そして慣れた手つきでスマホを操作し……手を止めた。「あら? 何よこれは。動画?」「明日香!」翔の制止する声に耳も貸さず、明日香はファイルをタップした。途端に流れ出すトイ・プードルの動画……。「……」翔は頭を押さえた。「何よこれ。ただの子犬の動画じゃないの? これを見ていたの? あら……? 送り主は琢磨じゃないの。もしかして琢磨ってば犬を飼い始めたの?」明日香は翔に動画を見せながら尋ねた。「あ、い、いや。実は琢磨の知人が最近仔犬を飼い始めたらしくて……動画が送られてきたからと言って、俺にも送信してきたんだよ。その犬が……ちょっとかわいかったからつい見ていた。それだけの話だよ」(明日香……どうか、気付かないでくれ……!)翔は全身に冷汗をかきながら言う。「ふ~ん……。つまらない動画じゃないの。こんなもの見て楽しんでたの? だけど何もそんなに必死に隠そうとしなくてもいいじゃないの? 変な翔ね」明日香は少しの間、動画を見ていたが……突然眉が上がった。「ど、どうかしたのか? 明日香?」翔がためらいがちに声をかけた。「うううん、何でもないわ。はい、返すわ」明日香は翔にスマホを返す。「私もシャワー浴びてくるわ。そのあとお酒飲むから用意しておいてね」「あ、ああ。分かったよ」それだけ言い残すと明日香はバスルームへと消えて行った。その後ろ姿を見送ると翔は溜息をついた。(ふう……。危ないところだった。何も気が付いていないよな? でも今
2月10日――「出来た! ついに編めた!」朱莉は嬉しそうに手編みのマフラーを掲げた。藍色のアラン模様のマフラー。バレンタインのプレゼントとして翔を想って編んだ物だった。「時間がかかったけど、編めて良かった……」始めは笑顔でマフラーを見つめていた朱莉だが、やがて徐々にその表情は暗いものになっていく。「編んだのはいいけど、翔先輩受け取ってくれるかな……。そもそもどうやって渡せばいいんだろう?」明日香に頼むのは論外だし、郵便受けに入れるわけにもいかない。かと言って九条琢磨に頼む事だって出来るはずが無い。「馬鹿だな……私ったら。翔先輩がマロンを見にいつかこの部屋に来てくれるんじゃないかって期待していたんだもの。その時手渡せるかと思っていたなんて……」以前までは琢磨からマロンの動画を送って貰いたいとのメッセージが届いていたが。ここ最近はその連絡すら入ってこなくなっていた。(それとも、何かあったのかな?)朱莉は部屋にいるマロンを見た。さっきまでは元気よく遊んでいたが今は遊び疲れたのか大人しく眠っている。「翔先輩……もうマロンには興味がなくなっちゃったのかな……」溜息をつくと時計を見た。今の時刻は午前11時をさしている。まだお昼までは時間があるので朱莉は通信教育の勉強を始めることにした。編み物の道具を箱にしまい、先程編みあがったマフラーを再び見つめた。「きっともう渡す事は無理だと思うから、自分で使おうかな……。でもいつか渡せる日が来るかもしれないし……」そこで編みあがったマフラーを編み物道具が入った箱に一緒にしまうと、PCに向かって通信教育の勉強を始めた時。――ピンポーン突然チャイムの音が鳴り響いた。「え? 誰だろう?」慌ててモニターで確認して、朱莉は驚きのあまり声をあげそうになった。なんとそこに映っていたのは明日香だったのだ。「あ、明日香さん……? どうして……?」心臓がドキドキしてきた。朱莉にとって、明日香は招かざる客でしかない。だがドアを開けない訳にはいかった。直ぐに鍵を開けてドアを開けると、腕組みをしてブランド服に身を固めた明日香が不機嫌そうに立っていた。「こんにちは、明日香さん」緊張で喉がカラカラになりながらも朱莉は頭を下げた。「……こんにちは。何よ、いたんじゃないの。いるならもっとさっさと早く出て来なさいよ」ツン
「え……? あ、あの……副社長に許可をもらって年末から飼い始めた犬ですが……?」「何ですって? 翔が許可したって言うの?」明日香は怒りに震えた声で朱莉を睨み付けた。「は、はい……」「貴女ねえ……ふざけないでよ!」明日香が鋭い声を出した。その声の迫力に朱莉はビクリと肩を震わせえ、マロンも何事かと目を開けて明日香を見た。「ヒッ! ちょ、ちょっとこの犬、目を覚ましたじゃないの! 私の所に近付けないようにしてよ! 匂いが移るでしょう!?」「す、すみません!」朱莉は急いでマロンの側に駆け寄ると抱き上げた。その姿を露骨に嫌そうな目で見つめる明日香。「全く……よくも動物を平気で抱き上げられるわね。信じられない人だわ」明日香はまるで汚らしいものを見るような眼つきで朱莉とマロンを交互に見た。「……」朱莉は何と返事をしたらよいのか分からず、俯いている。「何故犬を飼うのに翔の許可だけ得るのよ? 普通私にも尋ねるでしょう? 第一ここは貴女の家じゃないのよ!? 貴女はここを出て行って、将来的には私と翔が暮らす場所なんだから! 何故家主である私に犬のことを言わなかったのよ!」ここは貴女の家じゃない……。改めて明日香に面と向かって言われ、朱莉の心はまるでナイフで突き立てられたかのようにズキリと痛む。「す、すみませんでした……。明日香さんに何の相談もせずに……。そ、それでは改めてお願いします。どうか私がここに住まわせていただいている間、この犬を飼わせていただけないでしょうか?」マロンをギュッと抱きしめ、懇願した。「はあ? 何を言ってるの! そんなの駄目に決まっているでしょう!」にべもなく却下する明日香。「そ、そんな……」「当り前でしょう! 私はねえ、動物が嫌いなのよ! 匂いが染みつくじゃないの! 貴女、動物の匂いが染みついた部屋で私達に暮らせと言うの? そんなに犬と暮らしたければこの家を出て行ってからにしてちょうだいっ!」「!」(そ、そんな……。マロンを…手放せと言うの……?)思わず目に涙が浮かびかける。「何よ? 泣けば済むと思っているの? 泣けば私が許すとでも? 冗談じゃないわ! 貴女の雇用主は私と翔なのよ? 従う義務があるのよ! 貴女と結んだ雇用契約書にもそう記されているはずでしょう! もし言う事を聞けないなら今まで貴女に支払った金額を全部返し
「ウウゥウウウ……」牙をむき、威嚇するかのように低く唸るマロン。「マロン? どうしたの?」今迄一度も誰かに唸り声をあげた事が無かったマロンが今、朱莉の腕の中で低く唸っている。「な、何よ……この犬……。チビのくせに人に唸るなんて……。だ、だから動物は嫌なのよ……ちょっと! 何とかしなさい! その犬を黙らせなさいよ!」明日香は後ずさりながら叫んだ。「マ、マロン! お願い。おとなしくして……?」朱莉はマロンの頭を撫でながら必死に宥める。「とにかく、一刻も早くその犬を何処かへやってちょうだい! 1週間以内に他へやらないと保健所に通報するわよ!」「そ、そんな……! たった1週間でなんて……! お願いです。絶対に部屋の中を汚したり、傷付けたりしませんので……せめて後1カ月は待って下さい!」朱莉は眼に涙を浮かべて必死で明日香に懇願した。「……うるさいわね! それなら私が今すぐ何処へなりとも捨ててきてあげるわよ! ケースに入れなさい!」その瞳はとても恐ろしかった。「そ、そんな……」「それにねえ、本当は翔だって動物は好きじゃないのよ! だけど貴女に気を遣って断れなかったのよ。翔は誰にでも優しいから。だから勘違いするのよね!? 自分にも望みがあるのでは無いかと!」それはまるで朱莉の翔に対する思いを見透かしたかのような言い方だった。「!」(そ、そんな……翔先輩。本当は動物が嫌いだったの……? だから犬の動画も最近は何も言ってこなかったの……?)けれど翔も明日香も動物が嫌いなら、朱莉が選ぶ道は一つしか無かった。「わ、分かりました……。1週間以内に何とかします……」朱莉はこぼれそうになる涙を堪えながら、震える手でマロンをギュッと抱きしめて返事をした。「話はそれだけよ。1週間も待ってあげるのだから感謝しなさい! ……それにしてもここはお客に対して飲み物すら出さないのかしら?」明日香はリビングの椅子に座ると睨みつけてきた。「あ! す、すみません! すぐに用意します!」朱莉は慌ててマロンをサークルに戻すと、洗面台に手を洗いに向かった。少したってリビングに戻ると何故か明日香の姿が見えない。「明日香さん?」部屋中を探しても明日香の姿はみつからず、玄関を覗いてみると明日香の靴は消えていた。「明日香さん……帰ったんだ……」次の瞬間。「ウッ……フッ
「朱莉さん。君に話があるんだ。病院の外で話さないか?」「は、はい」朱莉は首を傾げながらも返事をした。しかし琢磨は翔の切羽詰まった様子が気になり、声をかけた。「当然、俺も話に混ぜて貰うからな?」「……好きにしろ」そして翔を先頭に、朱莉と琢磨は病室の中庭へと向かった。中庭に着き、ベンチに座ると翔は朱莉を睨み付けるような目で問い詰めてきた。「朱莉さん。昨日は明日香とずっと一緒にいたのに……何故君は明日香の異変に気付かなかったんだ?」「え……?」まるで責め立てるような言い方に朱莉の肩がビクリと跳ね、琢磨は驚いた。「翔! お前……何言ってるんだ!?」しかし琢磨の声が耳に入らないのか、朱莉を責めるのをやめない。「朱莉さん……君は明日香と同じ部屋にいたんだろう? しかも隣の部屋で寝ていれば苦しがる明日香の異変にすぐ気が付いたはずだ。……違うか?」「あ、あの……わ、私はあの時はまだ眠っていなかったんです。だから明日香さんの苦しんでいる声にすぐ気が付いて……それで……」「それを俺に信じろと言うのか? もしかして君は苦しがっている明日香を放置して、お腹の子供を流産させようと思っていたんじゃないのか? 明日香は君に子供を育てさせようとしていたからな」翔は眼に涙を浮かべながら朱莉を詰る。「! そ、そんな……!!」朱莉の口から悲痛な声が洩れる。「翔! 本気でそんな事を言ってるのか!? お前気でもおかしくなったんじゃないのか!? 大体朱莉さんにそんな真似出来るはずが無いだろう!?」琢磨は翔の胸倉を掴むと怒鳴りつけた。「うるさい! 俺と……明日香のことなんか何も……お前達2人には分からないくせに!」翔はまるで血を吐くように叫び、再び朱莉を睨みつける。「今回……明日香に命の危険は無かったが、もう二度と明日香を見捨てるような真似はしないでくれ。最低でも後5年は君と俺は契約婚という雇用関係を結んでいるんだから……。分かったか?」そしてフイと朱莉から視線を逸らせた。「悪いが今日はもう帰ってくれ。今はこれ以上君の顔を見ていたくないんだ」「!」朱莉はその言葉に身体を震わせ……俯いた。「わ……分かりました。ほ、本当に申し訳……ございません……でした……」最後の方は今にも消え入りそうな声だった。「翔! お前っていう奴は……!」「うるさい、琢磨。今日は
時間は2時間程前に遡る。リビングのソファベッドでぼんやりと天井を見ていた朱莉は隣の部屋に寝ている明日香のうめき声に気が付いた。「ううう……お、お腹が……!」それはとても苦し気なうめき声だった。「明日香さん!?」飛び起きて急いで寝室へ行くと、明日香は真っ青な顔で額に汗を浮かべてお腹を押さえている。「う……い、痛い……く、苦しい……」この苦しみ様は尋常ではない。朱莉は急いで電話をかけ、救急車を呼んだのだった――****――午前9時名古屋から始発で新幹線に乗って、翔と琢磨は明日香の入院している病院へと駆けつけてきた。そこには病室の待合室の長椅子に座っていた朱莉が待っていた。「朱莉さん! 明日香は……明日香の様子は!?」翔は朱莉を見ると両肩を掴んで詰め寄ってきた。「あ、あの明日香さんは……」「おい! 落ち着け翔!」そこを止めたのは琢磨だった。「あ……」そこで翔は自分が思っていた以上に取り乱している事に気付き、溜息をついて力なく長椅子に座り込む。そこへ主治医の男性医師が現れた。「ご家族の方ですね?」翔の顔を見ると声をかけてきた。「はい。それで……彼女の具合は……?」「ええ、今から説明致します。どうぞ中へお入り下さい」医者に促され、翔は力なく立ち上がると病室へと入って行き、待合室には朱莉と琢磨がされた。「……」朱莉は青ざめた表情で立っている。そんな様子の見かねて琢磨は声をかけた。「朱莉さん……。少し座ってお話しませんか?」「はい……」項垂れたまま、朱莉は椅子に座ると琢磨も隣に座った。「朱莉さん。明日香さんは妊娠していたんですね。知っていたんですか?」琢磨は朱莉に質問した。「はい。知っていました。……でも私も聞かされたのは昨夜はじめてだったんです。明日香さんの自宅に招かれて、そこで3カ月だって初めて聞かされて……母子手帳を見せていただいたんです」「そうですか……」琢磨は神妙な面持ちで朱莉の話を聞いていた。朱莉が翔の事を好きなのはとっくに気付いていた。それなのに自分の好きな男性の子供を身籠ったと明日香に聞かされた時、朱莉はどれほどショックだっただろう?その時の気持ちを考えると、今目の前に青ざめた顔で項垂れている朱莉が憐れでならなかった。「私はリビングで眠っていて、明日香さんは隣の寝室で眠っていたんです。それで夜
「あら、朱莉さん。もう上がって来たの? 随分早かったけどお風呂場掃除はしてくれたのかしら?」奥のリビングから明日香の声が聞こえてきた。「はい、明日香さん。御風呂場掃除してきました」朱莉がリビングを覗くと明日香は巨大シアターで何やら洋画を観ている最中だった。そして明日香は眠くなったのか欠伸をしながら言った。「朱莉さん。悪いけどベッドルームには貴女を入れる訳にはいかないのよ。何せあの場所は私と翔の特別な場所なんだから。リビングのソファはソファベッドにすることが出来るから、貴女はそこで寝て頂戴。布団なら用意してあるから」いちいち嫌みな言い方をして明日香は朱莉の反応を楽しんでいるような素振りを見せるが、朱莉は心を無にして耐えた。「有難うございます。それでは私はリビングで休ませていただきますね」朱莉は明日香から布団を借りるとリビングのソファをベッドに直し、電気を消して横になったがちっとも眠くは無かった。その時――リビングの隣の部屋のベッドルームから明日香の声が漏れてきた。「ええ……うん、大丈夫よ。……ふふ……ありがとう。愛してるわ翔」『愛してるわ翔』何故かその言葉だけ、朱莉の耳に大きく響いて聞こえた。朱莉はギュッと目をつぶり、唇をかみしめた。(隣のベッドルームで明日香さんと翔先輩は愛し合って……明日香さんは翔先輩との間に赤ちゃんが……)脳裏にモルディブで偶然明日香と翔の情事を見せつけられてしまったあの時の記憶が蘇り……朱莉は布団を被り、声を殺して泣いた――お願い、早く夜が明けて―と祈りながら—ー****—―午前1時 琢磨はホテルの部屋で1人、ウィスキーを飲んでいた。手にはスマホを握りしめている。「くそっ!」琢磨はベッドにスマホを投げ捨てると、グラスに注いだウィスキーを一気に煽った。本当なら今夜朱莉にバレンタインのお礼を電話で言うつもりだった。だが、朱莉は今明日香に呼びつけられて同じ部屋にいる。そんな状況では琢磨が電話を掛ける事は出来無かった。「全く……明日香ちゃんは何処まで朱莉さんを振り回すつもりだ……」琢磨はイライラしながら再びグラスに氷を入れるとウィスキーを注いで飲み干すと乱暴にテーブルの上に置いた。それにしても何故だろう。今夜は何かどうしようもないほどの胸騒ぎを琢磨は感じていた。子供の頃から琢磨は異様なほど勘が優れていた
「ぼ、母子手帳……」朱莉は明日香の差し出した手帳を信じられない思いで見つめていた。「ウフフ……。最近遅れているなって思って朝検査薬で調べたら妊娠反応があったのよ。それですぐに産婦人科に行ったら3カ月ですって言われたの」明日香は嬉しそうに笑みを浮かべながら食事を口に運ぶ。「まだ悪阻は無いんだけどね~最近お腹が良く空くのよ。それに不思議よね? 妊娠すると食べ物の嗜好が変わるみたいなの。以前の私ってあんまりお肉料理が好きじゃなかったんだけど、最近お肉が好きになったのよ。ひょっとすると生まれて来る子もお肉が好きな子になるかもね~」明日香は饒舌に話しながら肉料理をカットして口に運んでゆくが……当の朱莉はすっかり食欲は皆無だった。「あら? 朱莉さん。貴女殆ど食事に手を付けていないじゃないの? そんなんじゃ困るわよ? 私が妊娠したからにはこれから貴女には色々協力して貰わないといけないんだから」「きょ、協力ですか……?」「ええ、そうよ。でもその話はまた今度にしましょう。朱莉さん、光栄に思いなさいよ? 私の妊娠の話はまだ翔にも話していないんだからね? 貴女に一番に話したんだからね。何故か分かる?」「……」朱莉は黙ってしまった。「あら、忘れちゃったの? ならもう一度教えてあげる。いい? おじいさまが会社を引退するまでは私と翔は結婚する事が出来ないの。だから私が翔の子供を産むわけにはいかないのよ? つまり、朱莉さん。貴女が自分で産んだ事にしなくてはならないんだからね? それに私は子供が苦手だから、当然育てるのも貴女なのよ? まあある程度……よく子育ては2歳までが一番大変だって言われてるようだから3歳までは朱莉さん。絶対に貴女がこの子を育ててね。だからその為に6年という結婚期間を設けたんだから」明日香は自分のお腹に触れた。「!」実は朱莉はあの契約書を交わした時……半分は冗談だと思っていたのだ。仮に明日香が妊娠した場合、恐らく母性本能が芽生えて自分で子育てをすると言いだすと思っていたの。だがどうやら明日香は妊娠しても変われないのかもしれない。その後も明日香は子供が生れても翔と2人で過ごす時間を大切にしたいから自分達の邪魔を決してしないよう明日香に言い聞かせ続けるのだった—―「ふう……お腹一杯。妊娠するとね、すごく眠くなるのよ。朱莉さん、後片付けよろしくね。私
――17時時 翔のスマホに明日香からメッセージが入ってきた。明日香のことが心配だった翔はすぐにスマホをタップしてメッセージに目を通すと呟いた。「ま……まさか……本当に……?」近くにいた琢磨はその言葉を聞き逃さなかった。「どうしたんだ翔。今のメッセージ、明日香ちゃんからなんだろう? 一体何て書かれてあったんだ?」「実は朱莉さんが今夜明日香が1人で部屋に居させるのは心配だからと言って泊まり込みに来てくれることになったらしいんだ」翔は呆然とした顔で琢磨に言った。途端に琢磨の顔が険しくなる。「何だって!? 翔……まさかその話、鵜呑みにするつもりじゃないだろうな!?」「……」しかし翔は答えない。「いいか……? 確かに朱莉さんは俺が今夜は出張で東京にいないことは知っている。だが、翔。お前も出張だという話は知らないんだぞ? それなのに明日香ちゃんに今夜は1人だから自宅に泊ってあげるなんて言うと思ってるのか?」琢磨は怒りを抑えながら翔に質問をぶつける。「言うはず無いのは分かっている……。確かにこれは明日香の勝手な言い分かもしれないが、明日香は夜1人で過ごすのが不安なんだよ。だから朱莉さんに頼んだんじゃないのかな?」しかし、琢磨はそれを一喝した。「ふざけるな! 明日香ちゃんが素直に朱莉さんに頭を下げるものか! 恐らくお前の名前を出したに決まってる。きっと命令だとか何とか言ったんじゃないのか? ……気の毒に……」琢磨の最後の言葉は消え入りそう小さかった。「……そう……なのだろうか……?」しかし、いまだに翔は明日香の話を半分は信じようとしているのが琢磨には分かった。そこで琢磨は言った。「いいか!? 今度から明日香ちゃんの我儘に朱莉さんが振り回された場合は……いつもの手当てに倍乗せしてやるんだな!」言いながら琢磨は包装紙に包まれた箱を翔に渡してきた。「これは何だ?」「言っておくが、お前のじゃないぞ? 朱莉さんへのおみやげのういろうだ。彼女に渡してやってくれ。……俺はこれから名古屋支店の得意先へ顔を出してくる」琢磨はコートを羽織ると足早にオフィスを出て行った――****――18時 朱莉が部屋のチャイムを鳴らすと、早速明日香が出迎えに現れた。「いらっしゃい。朱莉さん、待ってたわよ?」赤いワンピースにドレスアップした明日香が笑みを浮かべる。
朱莉が自宅へ戻ると、何と玄関前に明日香が立っており、危うく朱莉は悲鳴を上げそうになった。「何よ。人のことをそんなに驚いた顔で見て。それより朱莉さん。今まで何処に行ってたのよ」明日香は機嫌が悪そうに腕組みをしている。(どうしよう……)一瞬朱莉は迷ったがここで変に隠し立てして後で明日香に真実がばれる位なら、今ここで全て白状した方が良いだろうと朱莉は判断し、正直に話す事にした。「あ、あの明日香さん。実は犬の引き取り手が決まったんです。それでその方の自宅にペットフードやエサ入れ等を届けてきたところなんです」すると明日香が目を輝かせた。「あら、朱莉さん。早速犬の引き取り手を見つけてきたのね? ということはもうあの犬はここにはいないのよね?」「は、はい。もういません」明日香の笑みに心を傷付けられながらも朱莉は返事をした。「そう、言われたことをすぐに実行に移す人は嫌いじゃないわよ。それで……」チラリと明日香は朱莉を見ると言った。「お茶の一杯くらいは入れて貰えるかしら?」「はい。気が付かず申し訳ございません」慌てて朱莉は鍵を開けると、明日香を招き入れた。明日香は部屋に上がり込むと、ジロジロと部屋中を見渡す。「ほんとに相変わらず何も無いシンプルな部屋よね……。これならいつでもすぐにこの部屋から出て行けそうよね?」意味深な明日香の言葉に思わずお茶の準備をしていた朱莉の手が止まる。「いやあね~冗談に決まってるでしょう? これから貴女にはまだまだ役立ってもらわないとならないのだから」またもや明日香の口から意味深な言葉が飛び出し、朱莉の心臓の動悸が早まってきた。(何だか怖い……明日香さん…何か私に依頼することでもあるのかな……?)朱莉は震えそうになる手を必死に抑え、コーヒーを淹れてテーブルの前に置いた。すると明日香が露骨に嫌そうな顔をする。「ねえ。朱莉さん……私今、カフェインは口にしないようにしてるのよ。ハーブティーは無いのかしら?」眉をしかめながら明日香が文句を言って来た。「あ……す、すみません。今度用意しておきます……」慌てて朱莉は頭を下げた。「そうね。出来ればカモミールかローズヒップを用意しておいてくれるかしら? 忘れないでよ?」朱莉は足を組んでブラブラさせながら言った。「はい、必ず用意しておきます」すると明日香が突然立ち上が
(明日香……今夜は自宅に一人ぼっちにさせてしまうことになるが、大丈夫だろうか……?)「どうした、翔? ボーッとして」いカレーを食べ終わっていた琢磨は翔に声をかけてきた。「い、いや……。今夜明日香はあの広い部屋に一人ぼっちですごさなければならないから、大丈夫か心配で……って……な、何だよ琢磨。その目つきは……」いつの間にか琢磨は翔を睨み付けていた。「お前なあ……それを言うなら朱莉さんはどうなんだよ? お前と去年の5月に契約婚を結んで、今はもう2月だ。どれだけあの広い部屋で1日中1人で過ごしてきたのか分かってるのか? それを、俺達は最高で後5年間は朱莉さんにその生活を強いる訳なんだぞ? 明日香ちゃんのことばかりじゃなく、たまには朱莉さんにもその気遣いをみせたらどうなんだ? 時には様子を見に行ってあげたりとか……って今更お前に何を言っても仕方が無いか」琢磨は深いため息をついた。「悪いが、俺は明日香の事で手一杯なんだ。朱莉さんのことまでは気にかけてやれない。だからそれなりに彼女には毎月お金を支払っている訳だし……。そうだ、琢磨。お前が時々様子を見に行ってやれないか? 例えば週に1度とか……」その話を聞かされた琢磨の顔色が変わった。「はあ? 何言ってるんだ? それこそお門違いだろう? 大体書類上とは言え、お前と朱莉さんは正式な夫婦なんだから。そこへどうして俺が朱莉さんの所へ顔を出せる? 年に数回とかならまだしも、しょっちゅう顔を出して仮にマスコミに知れたらどうするんだ? これが他の男なら話は別だが、俺はお前の秘書なんだからな? あらぬ噂を立てられて面白おかしく騒がれたらたまったものじゃない。だから翔。俺は朱莉さんに土産を買って来るから、お前から朱莉さんに俺からの土産だと言って渡しておいてくれよ」それだけ言い残すと琢磨はダストボックスに食べ終えたトレーを捨てると上着を着た。「琢磨、何処へ行くんだ?」「まだ昼休憩が終わるまで30分あるだろう? 駅の周辺の土産物屋に行って来る」そう告げると、琢磨は足早にオフィスを出て行った。その後姿を見送ると翔は深いため息をつくのだった—―****丁度その頃――朱莉は京極の部屋の前に立っていた。手にはマロンのペットフードや食器、シャンプー剤などが入った帆布の袋がぶら下げられている。緊張しながらも朱莉はインターホンを
――13時 あの後、琢磨と翔は新幹線に乗って名古屋にある支社に出張に来ていた。昼休憩を取る為にオフィスの外に出て、カレー専門店のキッチンカーに並んでいた琢磨のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。着信相手は朱莉からだった。(何だろう……? でも丁度昨夜のバレンタインのお礼も言いたかったし、食事が済んだらメッセージを送ってみよう)丁度その時、琢磨の番が回ってきた。「いらっしゃいませ。何にいたしますか?」店主がにこやかに声をかけてきた。琢磨はメニュー表をじっと見つめ……2人分のカレーを注文したのだった……。****「おい、翔。昼飯買って来たぞ」琢磨が2人分の食事を持って、2人の専用オフィスルームに戻って来た。「ああ、悪かったな、琢磨。今コーヒーを淹れるよ」翔は最近各オフィスに導入したばかりのコーヒーマシンがお気に入りで、度々利用していた。「琢磨、お前は何にするんだ?」「う~ん……そうだな。アメリカンにしてくれ」「へえ、珍しいな、いつもならもっと濃い味を好んでいるのに」翔は琢磨を振り返る。「まぁな、今日はカレーにしたんだよ」「へえ~どうりでスパイシーな香りがすると思った。いいじゃないか」「だろう? たまたまビルの外にキッチンカーが来ていたんだよ」「それじゃ俺もアメリカンにするか」翔は2人分のコーヒーを淹れるとテーブルに運んできた。「シーフードカレーとチキンカレーを買って来たが……お前はどっちがいい?」琢磨は2種類のカレーを翔に見せた。「それじゃ、シーフードカレーにするかな」「分かった。それじゃ俺はチキンだな」翔にシーフードカレーを渡すと、琢磨はコーヒーを飲んで笑みを浮かべる。「うん。やっぱりコーヒーマシンを導入して正解だったよ」「ああ。社員達にも好評らしいようだしな」翔はカレーを一口食べた。「美味いな」「ああ。こっちも美味いぜ?」美味しそうにカレーを食べている琢磨の姿を見ながら翔は尋ねた。「琢磨。実は朱莉さんのことなんだが……」「そう言えば、さっき朱莉さんからメッセージが入っていたな。食事が済んだら返信しようと思っていたんだ。丁度昨夜の礼も言いたかったし」「昨夜の礼……?」翔は首を傾げた。「ああ、実は昨夜朱莉さんからメッセージを貰ったんだ。俺にもバレンタインプレゼントを用意してくれたらしくて。今日は
昨日のことだった。京極は朱莉の境遇について、一切尋ねることはしなかった。ただ、尋ねたのはマロンのことについてのみだった。そこで朱莉は咄嗟に母と同じ嘘を京極についてしまったのだ。夫が実は動物アレルギーで、マロンを飼うことが出来なくなってしまったと。そして義理の妹である明日香に言われてマロンを手放さなくなってしまったことを京極に説明したのだった。京極は最後まで黙って朱莉の話を聞き終えると「それなら僕がマロンを引き取りますよ」と言ったのだった――「それでは残りの荷物の件ですが明日またドッグランでお会いしませんか? マロンを連れて行きますので、会って行けばいいじゃないですか?」京極は笑顔で言ったが、朱莉は首を振った。「いいえ……。マロンに会うのは今日で最後にします」「え? 何故ですか?」京極は信じられないと言わんばかりの目つきで朱莉を見つめる。「病気で入院している母に言われたんです。自分の都合でマロンを手放すのに、会いに行くのはあまりにも勝手な行動なのでは無いかって。マロンは嬉しいことに、すごく私に懐いてくれています。でもきっと私が突然いなくなったらすごく悲しむと思うんです。それなのに会いに行けば、きっと私の元へマロンが帰りたがると思うんです。そうしたら京極さんに迷惑をかけてしまいます。ですから……」後の台詞は言葉にならなかった。朱莉は涙が出そうになるのを必死で堪えて俯いた。「分かりました……」京極はメモ帳とペンを取り出すと、スラスラと何かを書いて朱莉に手渡してきた。「これをどうぞ」「あの……これは……?」朱莉はメモ紙を受け取ると尋ねた。「これは僕の自宅の部屋番号です。在宅勤務で殆ど自宅にいますのでいつでもマロンの荷物を運んできていただいて大丈夫ですよ。あ、でも来る前に一度連絡を入れて貰ったほうがいいかな? 僕は部屋の中でもサークルに入れないで放し飼いをしているので、貴女の匂いに気付いてマロンが飛び出して来るかもしれないですからね。玄関の外で荷物を受け取りますよ」「はい、何から何までありがとうございます。それではマロンをよろしくお願いします」朱莉は立ち上がった。「朱莉さん。最後に……マロンを抱いていかなくていいんですか?」「いいんです……。だ、だって……マロンを抱いてしまったら別れがたくなってしまうから……」朱莉は泣くのを必死で堪え